一宮古文書学習会

古文書用語集

三輪家日記に出てくる用語で、馴染みのない特殊用語を集めました。

《用語説明》

項目 解説 出典・内容 その他
かまや 釜屋。釜に繭を入れ煮て、生糸を引く職業。 江南市史 古文書編 上P81 慶2-032
符引 くじ引きのことか 江南市史 本文P330 慶2-030
山田弐百六人 不明 慶2-030
御薬ゑん 当時御薬園は「御深井御薬園(名古屋城北側)」と東「御下屋敷御薬園(現名古屋市東区代官町)」の二か所あった。 名古屋市図書館名古屋なんでも調査団「調査団報告書NO.104」 慶2-029
しやかのはち 2月15日は釈迦ねはんの日である。禅宗、真言宗、浄土宗の寺では、僧侶がこの日にそなえて托鉢にまわった。寺が近所の子供に頼み、近所の村をまわって米を集めた。これをシャカノハチヒとよんでいた。 一宮の民俗・栗本京子著「宮田の民俗」 慶2-027
上井 上の井筋と解釈。 学習会 慶2-027
十二文銭 不明 慶2-026
山木割合 村共同体の山木を希望者二百六人で分ける会合を行った。 学習会 慶2-025
イケ候 いける。埋めること。 ナゴヤベンじてん 慶2-025
めたし木 不明 慶2-024
マメにん行(人形) 南江治郎著「人形劇入門」に「この帛紗人形は佚父にのこっている豆人形などと共通のものです。胴串なしの人形に、『遣い手』の腕に人形の衣装を番せ、拳に頭をはさみ、手を差しこみにして、ひとりでつかうものです。」とあるがどうか? 南江治郎著「人形劇入門」 慶2-023
長せ つゆ、台風などの影響で、東よりの風が強く、驟雨性の雨が二日以上断続する天候。 ナゴヤベンじてん 慶2-022
そだ木 粗朶。伐り取った樹の枝。(広辞苑)
この意味だと文章と合わない、不要な木のことかも。
慶2-020
かんしやう 閑所。間所。路地のこと。 ナゴヤベンじてん 慶2-017
文久銭 表は「文久永寶」裏は「波」で一文銭より少し大きめ。四文銭として発行された。波銭とも言う。(最初は明和五年の「寛永通寶(四文銭)」が始まり。安政年間以降、相場の変化で「文久永寶」は六〜八文で通用した。(ウィキペディア・大正4年版 名古屋市史 政治編2 P177・178) ウィキペディア・大正4年版 名古屋市史 政治編2 P177・178 慶2-013
あいでかし 相でかし(作る)か? 学習会 慶2-007
かすき 「かずく」は、かつぐ・になう、とある。 ナゴヤベンじてん 慶2-007
嶋かゝり 材木が、島に打ち上げられたもの。 学習会 慶2-004
二はん鳥 夜明けに一番鶏の次に鳴く鶏。また、その声やその鳴く時刻。普通午前四時頃鳴くとされる。 日本国語大辞典 慶2-004
マゲ物 曲物。桧・杉などの薄く削りとった材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。桧物(ひもの)。 広辞苑 慶2-002
道(通)板 不明。若者御大法事の道具か? 元2-143
兼而一件 不明 元2-139
大張 大割。毎年七月と十二月に村の下用を書き上げ、高割り(一石当りの割合)と家並割(一軒当たりの割合)を計算し、蔵入庄屋および給知庄屋毎に割り付け、各戸から費用を徴収した。その割り付を大割といった。 江南市史 史料三 古文書編下 P236〜宮田村村方下用大割帳 元2-139
ゆきみそり 雪みぞれか? 元2-138
書入畑前八畝切 田畑や家・屋敷を担保に金銭を借り受ける証文。書入証文。 音訓引き古文書字典 元2-136
すけコウ(助郷) 宿駅が常備する人馬を補完するために付近の村々に課せられた夫役およびその村。 岩波日本史辞典 元2-130
二福人 二福神。恵比須・大黒。 元2-129
かけ清 景清。浄瑠璃の本と思われる。近松門左衛門作の「出世景清」貞享二年竹本座初演。平景清が源頼朝および畠山重忠を討とうとして失敗し、入牢を命ぜられたが、観世音の功力によって一命を助けられ、両眼をえぐって日向に下るまでを脚色。能・幸若舞・歌舞伎などの演目となる。 広辞苑 元2-128
入井屋市兵衛 茶屋町二丁目、庄屋衆商人宿か? 名古屋城下お調べ帳 元2-128
東仲藤宿 永安寺町・東魚町一丁目の庄屋衆商人宿中島屋藤左衛門か? 名古屋城下お調べ帳 元2-128
王びん 穏便。元2-117では「大びん」とあり。 元2-121
墨黒毛 馬の毛色。黒毛と同じ。 大日本国語辞典第3巻 元2-120
明俵 何も入ってない俵のことと思われる。名古屋叢書続編3の地方古義P392に「一 海川留為手当、明俵二万枚御蔵に手当有之筈……」とあり。 名古屋叢書続編3の地方古義P392 元2-119
東べら 東縁(へり)か? 元2-118
大びん 穏便 学習会 元2-117
もツとい 元結(もとゆい) 広辞苑 元2-116
下ゑ石ツみ候船 下流へ石を運ぶ船。普請や土台等の石の需要があり木曽川の石を下流へ運んだ。 尾張藩社会と木曽川P148〜 元2-110
二百廿日 立春から数えて220日目。二百十日と同じ意味で厄日とされる。 広辞苑 元2-108
村立(七月九日) 不明 元2-107
わらすさ 「わらすさ」は、藁を刻んで作った?(すさ)。「すさ」は、壁土にまぜて亀裂を防ぐつなぎとする繊維質の材料。普通、荒壁には刻んだ藁(わら)を用いる。 広辞苑 元2-106
とい 不明 元2-101
竹大かわ 竹皮か? 元2-101
ゑ代 餌代か? 元2-099
大虎 見世物の出し物と思われる。小寺玉晁「東西紀聞・第一」のP14に、文久三年の大坂?の書状に大虎の見世物の記録あり。 小寺玉晁「東西紀聞・第一」のP14 元2-099
藤倉ぞうり 文4-129参照 元2-097
ぶりき ブリキ。錫(すず)をメッキした薄い鉄板。 広辞苑 元2-097
ぎをん祭 若宮八幡宮の祭り。名古屋叢書三篇6・尾張州中行事絵抄P146〜153・202〜211に山車(七台ほど)など詳しく記載あり。本祭りは十六日で、十四日は車引始とある。 名古屋叢書三篇6・尾張州中行事絵抄P146〜153・202〜211 元2-096
大ツのゑ 大津絵。近世初期より近江国大津の追分・三井寺辺で売り出された民衆絵画。庶民の礼拝用の略体の仏画から始まり、元禄の頃から諷刺をまじえた明快な戯画風のものが登場し、道中土産として世に迎えられた。代表的な画題は鬼の念仏・槍持奴・藤娘・瓢箪鯰など。 元2-096
通(かよい) 通い帳の略。@年貢米・金を分納する際、その度ごとに納付額を記した帳面。A掛売買の時、品名・金額・日付などを記して、後日、代金請求の時の覚えとした帳面。 音訓引き古文書字典 元2-094
西がやし 西返し。台風が峠を越して西から吹くようになったときを、西返しという。 インターネット「民俗学と自然科学」 元2-093
風共 風袋共の意味か(別に「正ミ」の用語あり。) 元2-091
をい川 おいかわ。コイ科の淡水産の硬骨魚。全長約20cm。雄は臀(しり)びれが非常に大きい。背部は暗緑色、腹部は白色。分布が広く、川のやや上流の清い水にすみ、釣魚として知られる。 広辞苑 元2-091
三十はい 杯。船を数える語。 広辞苑 元2-089
木引 学習会では木を曳く職人かもとの説明あり。 学習会 元2-088
さし木 不明。散木カ。学習会では木を隠すことかもと説明あり。 元2-088
かたし 不明。剣道の道具か入れ物関係 元2-087
目代弐丁ヲシ上 不明。蚕用語 元2-084
セとり 「ナゴヤベンじてん」では「せどる」を「少量ずつ運ぶこと」とある。 ナゴヤベンじてん 元2-084
モヤイ もうやい。共同作業・共有 広辞苑・方言 元2-084
まづき 真搗麦。脱穀された大麦。 「麦について」参照 元2-082
あらふとん 新しいふとん。 元2-082
皮麦 脱穀前の大麦。または、皮がはがれにくい大麦。もみがらが離れやすい大麦を裸麦と言う。 「麦について」参照 元2-081
とのきひもち トノキビは背が高く、その先に赤い実のなるもので、その実をとり穂先は箒をつくった。くきの芯は、火打石から火をとるときに使った。この実をついてトノキビモチをつくったが、あまりおいしくなかった。赤もちといった。(一宮の民族)
一般名の「モロコシ(蜀黍、唐黍)、タカキビ(高黍)」のことか。トウモロコシとは別の穀物
一宮の民族 元2-081
いほさをろかけ 猿尾の構造の名前「江南市史古文書編・上P341」に中般若村の申達に「御堤通り千間猿尾并いぼ猿尾…」また、草井村村絵図に「大いほ猿尾」の記載あり。「かけ」は欠けか? 江南市史古文書編・上P341 元2-080
さヲロ 猿尾。猿の尾のような形に川に突き出した堤防。 元2-080
馬たらい 馬盥。馬を洗うのに用いるおおだらい。 広辞苑/北斎画程ケ谷(馬盥で蹄を洗う図)」参照 元2-079
中たナ 不明。堤防の中段の部分か? 元2-078
土方衆 地方の間違いか 学習会 元2-078
川方 川並方 元2-078
御用木ナカレ 木材の引き上げ(留木)と流材の探索〜〜その作業は木曽川沿いの村々の有力者を留木裁許役に命じ、農民を徴発して行われた。 小川一朗著『北方代官所「御用引請人」の在り方』P135 元2-078
しばみ 不明 元2-077
ほた木 椎茸・なめこ・ひらたけなどを栽培するために伐った椎・栗・櫟(くぬぎ)などの木。 広辞苑 元2-074
トモにかゝる 不明 元2-073
車道地方組 車道筋は成瀬隼人正下屋敷(現徳川美術館)から建中寺東脇を通って新栄小学校前に至る筋で、この南側に支配勘定役や同心の住まいがあった。 名古屋城下図 元2-070
中水 大水に対して中ぐらいの出水のことか? 元2-068
□(不明)ふじ 鰹節か?(利介は玉子・鰹節等の商いをしている。) 元2-067
みノさはち 「さはち」は、砂鉢・皿鉢。アサハチ(浅鉢)の略。浅い大形の磁器の鉢。(広辞苑)(ナゴヤベンじてんにも有り)。ミノは美濃焼か。 広辞苑/ナゴヤベンじてん 元2-067
ム中 夢中か? 元2-062
じ葉(たばこ) 不明。地葉か?(地元産の葉・地面付近の葉) 元2-059
真ツキ麦 江南市史本文編P368に「水車で荒麦を搗いたものを、真搗(まづき)と称した。荒麦あるいは皮麦と称された皮付きの麦は、宮田村で栽培された麦を搗いて各地に送つたのであろうか。」とある。 江南市史本文編 元2-057
倉知村祭り @関市指定無形民俗文化財である倉知祭は、白山神社側を上組、鞍智神社側を下組に分け、両組の神輿を祭礼場に担ぎ出し、両神輿を組み合わせて押し合う、奇祭・けんかまつりとして知られています。
A毎春四月二十日を祭日とした。
Bかつては奇祭「倉知のけんか祭」といわれたが、昭和39年廃止された。
YouTubeから
岐阜県の概要と史蹟名勝
角川日本地名大辞典・岐阜県P878
元2-056
ミしろ むしろ?。学習会では「棕梠(しゅろ)」との意見もあり。 元2-055
出子 蚕種の名前か?、蚕種販売覚には「大出子」「小出子」の記録もある。 日記 元2-052
つゝみぞへ 堤添えか?、不明。 元2-051
ツケ下け 不明。屋根の部分か? 元2-048
ツマ 妻。切妻(きりづま)や入母屋(いりもや)の側面の三角形の壁面。 広辞苑 元2-048
化導(けどう) 教化(きょうけ)し導くこと。 広辞苑 元2-044
鱠(えそ) エソは海水魚のようなので、誤字かも。 元2-043
千疋馬 インターネットでしらべてみると、
@千匹絵馬と言うのがあり、各地で神社や寺院に奉納されていた。
A刀の鍔に「千疋馬」を彫ったものがある。
絵の目的は、馬自身の健康・繁栄や五穀豊穣だったと思われる。
インターネット 元2-043
トウシ絵 唐紙か。 日記解釈 元2-043
戸前 とまえ。土蔵の引戸の前に設ける観音開きのとびら。 広辞苑 元2-040
ねだ 根太。床板をうけるために床下にわたす横木。 広辞苑 元2-040
若者しはい(芝居) 「江南市史本文編」に「村の芝居」として詳しい解説あり。 江南市史本文編 元2-040
大法シ 大法事か。この年大会、大法事多い。 日記解釈 元2-038
かむろ(禿) 江戸時代の遊郭に住む童女、または、高級遊女の見習いの童女のことを指します。 インターネット 元2-034
くマカイ(熊谷) 熊谷直実の人形か。 日記解釈 元2-034
したどうき 「胴着」なら広辞苑に「上着と襦袢ジバンとの間に着る綿入れの防寒用の衣服」とある。 広辞苑 元2-034
リウもん 竜文か。広辞苑には、(「綾文」の転か。「竜門」「流紋」とも書く)もと中国・朝鮮から来た無紋の綾の一つ。江戸時代、日本産の綾のない太い糸の平織の絹織物をもいい、文様を織り出したものもあり、袴はかま・帯地に用いた。 広辞苑 元2-034
丁(百の文字の添える) 江戸時代には銭九十六文をもって百文とする慣習があった。これに対して百文をもって百文とすることを調銭とか、丁百の銭といった。そして百位と十位の間に小さく「丁」の字を入れた。 江南市史 古文書編 下P213 元2-033
きひしよう 「きびしょ」は「江南市史文化編」方言の項に、「急須」とある。 江南市史文化編 元2-033
伊ヨマ廿(サ)紙 伊予柾紙。伊予から産出した良質の正目奉書。昭和初期まで多く錦(にしき)絵などの版画や千代紙に用いた。 広辞苑 元2-033
名古屋御防(坊)所えさんけい 真宗大谷派名古屋別院。彼岸は二十四日なので春季彼岸会の参拝か。 寺院 元2-032
ふさる(悪水杁) 「地方品目解」の「杁」の説明に「杁を堤下に伏せ候」とある。ここでは杁が出来た意味と思われる。 名古屋叢書十巻・地方品目解 元2-031
和田村弥四郎殿薬を取ニ見へ 文久四年日記P110で「和田村弥四郎殿相見目薬二貝遣シ候」とあるので目薬か 日記解釈 元2-031
しふちかんしる 「しぶち」は時雨(文久四年P236)。「かんじ」は寒いこと(文久四年P027) 江南市史文化編
ナゴヤベンじてん
元2-030
馬ろうか 駆け馬のことかも。「江南市史本文編」では、禁止されていても隠れて行われていたと記されている。 江南市史本文編 元2-027
大御法事 東野村には真宗大谷派真成寺があるが、P028には御大会とある、誰の法事か不明 日記解釈・不明 元2-027
三十三ばんのかんのふ(観音)様 西国三十三番(華厳寺)の観音様(十一面観音)を取り上げて御詠歌を歌いに来てくれた。 講義 元2-026
御しや加様 二月十五日は涅槃会といって釈迦入仏供養会である。寺院では涅槃図をかけ法会が行われ、おはなくそといって色彩をほどこした米の粉餅を作って子供に与えた。 江南市史文化編P427年中行事 元2-025
只七殿内方… 書かれてはいないが、墨ゑのことが解決したと思われる。 日記解釈 元2-023
御帳面三さつ 文久四年P033参照 元2-022
壱たん 一駄のこと。馬一頭が負う荷物の量を表す単位。一駄は本馬が三十〜四十貫。軽尻は、本馬の三分の二程度。 音訓引き古文書字典 元2-021
けんしやく 間尺。家屋の新築、古屋の売買・移築には、すべて間尺願を出し、御法度の材木の使用は一切無いことを記して許可を願った(川並役所に対して)。 (江南市史 資料三 古文書編 上 P166) 元2-020
内ウラ 「ナゴヤベンじてん」では「内面・裏面」とある。 ナゴヤベンじてん 元2-019
ふしのこ屋 文久四年に「ふしの粉屋」「岐阜東御坊所門前」とある。 店名 元2-018
ギフサ(岐阜座)でく 人形浄瑠璃の人形(江南市史本文P422)
岐阜座については、「愛知県史別編民族2尾張」P924に「伊奈波神社境内の岐阜座」とあり、「日本操り人形史(加納克己・2007)」に「金花山岐阜座本坂口屋甚蔵」とあるので、ここに岐阜座があったと思われる。ただ、最終的には美江寺に移ったと聞いている。(先生)
江南市史本文P422
講義他
元2-016
かんじ 寒いこと。(文久四年P027) 再掲 元2-016
初馬(午) 寺小屋時代にはこの日に子供を寺小屋へ入学させた(初登りと言った)。戦前当地では養蚕が盛んで、お蚕祭りが行われ繭だんごを作り神に供えた。献馬も行われ竹ひごに色紙をつけた飾りを馬の背にのせた花馬が奉納された。宮田の初午蚕祭りは神楽が行われ盛大であった。(江南市史文化編) 江南市史文化編 元2-016
しび まぐろ。文久四年P098に塩しびと有り。菊右衛門は塩ものを扱っていた。三重県食文化事典に「まぐろの切り身に塩をしたもの」とある。 広辞苑
三重県食文化事典
元2-012
本やねノほりくみど板 不明 元2-012
土蔵ノ上えすな 不明 元2-012
小マイノしをり 木舞(こまい)は、屋根や壁の下地に組みわたす竹または木とある。しおりは不明。 広辞苑 元2-012
すべなわ 干した稲藁のぼそぼそした葉の部分を「藁すべ」と言っている。縄をなうときは、通常すべをとり茎の部分でなうようで、「すべ」を取った縄を「荒縄」とも「すべ縄」ともというとあり。(「北信州の方言・農作業の道具」より)
別の説明では、どの家にも土間に平らな石をおいて冬の朝はここでわらを叩いて軟らげた。それでなったものをすべ縄といって荒縄より丈夫であった。水車にわらたたきのあるのもあり、秋になると、一冬使う分ぐらいたたいてもらう家もあった。(南箕輪村誌 上 民俗編)
インターネット
南箕輪村誌 上 民俗編
元2-011
しよう中かす(焼酎粕) 桑の木の肥料に使った。(文久四年P008) 再掲 元2-007
しむね(土蔵) 地棟カ。合掌などを支えるため、棟木の下にこれと平行においた材。太い木が使われる。 広辞苑 元2-007
せつニマイリ 文久四年日記P008「十六日おれい…せつニ参り」と同じ 再掲 元2-005
御蔵米 ここでの御蔵米の購入の意味は不明 不明 元2-005
三状(帖) 一帖は美濃紙四十八枚、半紙は二十枚 広辞苑 文4-244
岩国紙 岩国半紙。岩国地方に産するコウゾ製の半紙。天正(1573〜1592)年間、小瀬村(現、岩国市)の農民、太郎右衛門の創製という。 広辞苑 文4-244
名古屋くわな屋 「尾張藩便利帳」には玉屋町二丁目、諸国御定宿・勢州飛脚宿とある。御師の出張所で取次をやっていたと思われる。 尾張藩便利帳 文4-241
しふち しぶち・時雨。 江南市史文化編「方言」 文4-238
あつべ 「集める」か? 文4-236
金そう 金創。刀きずのこと。 文4-229
ツみ之ほせ 上りの意味か? 文4-228
御ヨセ 船寄せ。緊急時に船による通行を止めるため船を集めること。 学習会 文4-226
ゆうない 夕暮れまでの意か? 学習会 文4-224
とをす とうす。籾をひいて玄米にする・臼・唐臼。(江南市史文化編・方言)(一宮の民具P65) 江南市史文化編・方言
一宮の民具P65
文4-224
そま 杣のことか?。木材を伐り出す山。杣山から伐り出した材木。杣木を伐り出すことを業とする人。 広辞苑 文4-221
かふほり 木の株を掘るの意味か。 学習会 文4-219
一か 一荷、一駕か? 文4-215
しふ(渋)紙 張り合わせて柿渋を塗った紙。敷物または荷物の包み紙とする。 広辞苑 文4-215
両かけ 両掛。旅行用の行李こうりの一種。挟箱はさみばこまたは小形のつづらに衣服・調度を入れて天秤棒の両端に掛け、供の者にかつがせたもの。 広辞苑 文4-215
あんかい 案外か。予想と食い違った。 学習会 文4-210
しほり 不明。みやげなので食べ物か? 文4-209
若同行 明治二年の日記に若者同行とある。ひとしく真実の教法に結ばれて生きるともを、同朋・同行(どうぎょう)という。 大谷大学ホームページ「生活の中の仏教用語」より。 文4-206
一之宮行かい物 三と八の日は三八市があり買い物に出かけた。 学習会 文4-206
ゑびす講 旧十月二十日恵比須講。商家では恵比須・大黒の二神を祀り商売繁盛を祈って、神酒を供え、牡丹餅を作り親戚知人へ配り子供に菓子を与えた。 江南市史文化編・年中行事 文4-203
ふ綿 おくめへ渡した土産。何か不明。 文4-201
よりあめ おくめへ渡した土産。何か不明。 文4-201
石かけ 石垣。 方言/江南市史文化編 文4-199
シツぼく 「しっぽく」か。江南市史文化編「2 食生活の変遷」「にゅうめん」の項で、「うどんの食べ方は、湯付・しっぽく・煮こみ・冷やしうどん等いろいろあり遊び日、来客用とした」とある。 江南市史文化編 文4-198
麦あなふたげ 「あなふたぎ」は麦まきの終りの祝い。(江南市史文化編)ただし、広辞苑では「大豆を蒔くこと」とある。ここでは、麦の種まきのことか? 江南市史文化編
広辞苑
文4-197
御くう 御供のことを「ごくう」と言うので、その御下がりのことと思われる。 文4-195
判(版)下 木版・印判などを彫るための下書き。薄い紙に彫るべき絵または文字を描き、これを裏返しに版木・印材に貼りつける。 広辞苑 文4-194
キノゑ子(甲子) 甲子。ネズミを大黒の使者と見なして、甲子の日に大黒天を祀る。 広辞苑 文4-186
畑かけ 不明 文4-185
水かすきて 水が過ぎてか? 文4-185
いせぎ 井堰か? 文4-185
御しろ講 不明 文4-183
どヨ(土用)三郎 夏の土用に入った日から三日目。この日快晴ならば豊年、降雨ならば凶年とする。 広辞苑 文4-183
ねり(染や) 精練してから染めること(練染:生糸を練った上で染めること。) 広辞苑 文4-183
にゆう免(入麺) 小麦を車屋で小麦粉に替え、家でうどんに打つ。このうどんを醤油で煮こんだものをいう。 江南市史・文化編 文4-179
塩之いな いな(鯔)はボラの幼魚。ボラは、世界各地に産し、養殖魚ともなる。秋に美味。卵巣を塩漬にして「からすみ」とする。出世魚とされ、3〜4センチの稚魚をハク、小形のものをオボコ・スバシリ、20〜30センチのものをイナ、成長したものをボラ、またきわめて大きいものをトドなどという。 広辞苑 文4-174
かかり女 古文書字典では「かかりびと(掛人)」として「戸主の親族の被扶養者。いそうろう。」とあり。 音訓引き古文書字典 文4-172
三ゆせん 不明? 文4-169
大あい 大鮎 ナゴヤベンじてん 文4-169
はいふ 酒が買える札。クーポン券のようなもの。 学習会講義 文4-169
ヨヒニいこし 呼びに行くの意味か?江南市史文化編の方言では、「いこせ」は「よこせ」とある。 方言/江南市史文化編 文4-167
しろの皮 棕梠か。権重郎は三州のほうき屋の忰なので、ほうきの材料の棕梠の皮もうなずける。 文4-160
松竹村ひきやく 松竹村の飛脚か。書籍類には見つからない。 文4-160
稲口村会 講会の名前。現春日井市稲口(名古屋空港の東南)か 文4-159
すし箱ヤジメ 『切りずし(愛知県)道具の名称 すし箱を段重ねにして枠にはめ、枠にクサビを打ち込んでまとめてすし箱を押さえつける道具がある。一部で「ヤジメ」と称されるこの道具は、通常「すし箱」もしくは「箱ずし」とよばれ、その分布は、ほぼ濃尾平野と一致する。 通常、箱は5つを1セットとし、これを収めるような枠がある。ひとつの箱には約2合のすし飯が詰まる。』とある。 インターネット
一宮の民具P28に鮨箱とある
文4-147
二百十日 立春から数えて二百十日目。ちょうど中稲の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。 広辞苑 文4-144
しめりあすび しめり遊び(しめり祝い)。
雨乞いの後や、しばらく日照りが続いた後に適度な雨が降ると、「しめり祝い」などと称して臨時の農休みとしたり、祭りが行われたりした。
愛知県史別編・尾張・民族2-P706 文4-134
藤倉草履 藺(い)で編み、表に木綿鼻緒をつけた草履。ふじくら。 広辞苑 文4-129
夏蚕(なつご) 夏に飼育する蚕かいこ。普通七月に上蔟(じょうぞく)(繭を造らせるために蔟(まぶし)に入れること)する。二番ご。 広辞苑 文4-127
こかけ様 蚕影(こかげ)様。茨城県つくば市神郡に蚕影神社があり、蚕の神様として、稚産霊(わくむすび)神・金色姫を祀る。蚕影様は桑を手にした女神の姿が多いようである。 伊藤智夫著 ものと人間の文化史 絹i 文4-121
わらじかけ 草鞋をはいていること。 広辞苑 文4-120
たまや @普通一軒に一か所「たまや」があり、炊事、洗物の水を溜めて置き、自然に地下へ滲透させ浄化をはかった。糞尿は腐敗させ風呂水で薄め肥料に使った。
A流しの排水や調理や食事の残り物は、流しの側のタマヤに流した。タマヤは方形で一坪から二坪ほどの広さがあり、深さは一メートルほどあった。(省略)一年に三回ほどタマヤの汚れた土をきれいに浚え、水田の土を運んできて入れた。浚えた土は乾燥してから砕き。ツチベヤに溜めておいた。大麦や小麦の種を蒔くとき、種の上にふり撒いた。
方言/江南市史文化編P410・愛知県史別編・尾張・民族2-P397 文4-119
ふるびそう 「ふるびそう三もと」とあるが不明 文4-115
ばら川(皮) 「一宮の民俗P87」に「竹の枝に付いている細いばら皮」とある。 一宮の民俗P8 文4-113
座敷目台(基)一たれ 不明 文4-113
どヨ(土用)ぼし 夏の土用に、衣服・書物などを干すこと。虫干し。 広辞苑 文4-112
しび まぐろ。文久四年P098に塩しびと有り。菊右衛門は塩ものを扱っていた。三重県食文化事典に「まぐろの切り身に塩をしたもの」とある。 三重県食文化事典 文4-112
ささ板 板屋根をふくための杉の薄い板・ 文4-110
目薬二貝 当時、目を洗う薬として貝に入れ販売していた。 ホームページ「おくすり博物館/薬と歴史シリーズ11/目薬の変遷2」参照 文4-110
箱四ツ 蚕種を入れてきた箱か? 文4-109
ひりん酒 「ナゴヤベンじてん」に「びりんしゅ」は「みりん」とある。 ナゴヤベンじてん 文4-108
なつご 夏に飼育する蚕。普通、7月に上蔟(じょうぞく)する。二番ご。 広辞苑 文4-107
村さめ 急に激しく降り、さっと通り過ぎる雨。にわか雨。 文4-107
まへかき 「まえかけ」のことか?「ナゴヤベンじてん」で「マイカキは前掛けのなまり」とある。 方言/ナゴヤベンじてん 文4-106
のふ(農)やすみ 村では田植えがすむと「農上り(農休み)」が区長より発表された。(半夏生から十日目が農休みとなる)。疲労回復のために休息をとるのであるから、この日は一日中農事に関した仕事はなにもすることができなかった。 一宮の民俗 文4-105
とほし松 ともし松。松明のことか? 文4-104
壱はんすり 不明(6月14日何をすったか?) 文4-103
いきる むし暑い。 江南市史文化編・方言 文4-103
はがま 周囲につばの付いた炊飯用の釜。 広辞苑 文4-097
御初ヲ(穂)料 室町・江戸時代はハツオと発音し、「初尾」とも書いた。 広辞苑 文4-094
こはし 小橋か? 文4-089
蚕コキイマイ 不明 文4-088
しようヨツマリ 病名か?、不明 文4-088
種粕 油脂作物(菜種なたね・大豆・綿実わたのみ・亜麻・落花生など)の油をしぼった残りかす。窒素を含み、肥料・飼料とする。 広辞苑 文4-084
もれ法事 不明 文4-082
塩ふり 塩鰤(ぶり)か?、後飛保村菊右衛門は塩干屋 文4-082
金蓮寺様 講会の名前。 文4-081
東嶋之会 講会の名前東嶋は岐阜に厚見郡東嶋と各務郡東嶋村の2か所あり。 文4-081
尾房村会 講会の名前。岐阜城の北東、長良川沿いに雄総(おふさ)村があったが、この村か不明。 文4-081
麦にわウチ 「一宮の民俗」P50には「麦は一握りずつマンガ(千歯・麦や稲の脱穀に使う道具)でしごいて穂を落とし、天日で乾燥させ、ニワウチやヨコウチで麦の穗をくだいて実をおとした。これをヒゲオリといった。後に万力(カラ竿)が使用されるようになった。また、所によってはナグリ台の上で、麦を一握りずつ持って穂の部分をたたいて実を出した。」とある。(千歯や万力は「一宮の民具P64」に画像あり) 一宮の民俗P50
一宮の民具P64
文4-081
三色三拾丁 色は蚕種の種類か?、丁は蚕種紙の枚数か? 文4-078
めつそう 目分量 方言/ 文4-078
たれ 繭を数える単位か不明 文4-077
マイカキ 繭かき。繭になった蚕を蔟(まぶし:糸を吐くようになった蚕を移し入れて繭を作らせるための用具)から掻きだすこと? 養蚕図解などに記載 文4-075
〆十一めたい立 不明 文4-075
六つ切 蚕種紙の単位か、どの大きさか不明 文4-074
おし上 蚕種卵が孵ることか?、不明 文4-074
五丁 蚕種紙の枚数か?、不明 文4-074
七百四十八銅 銅は銅貨を数えるとき使う語。一銅は一文 広辞苑 文4-073
もづわらすぐり もつれ藁を整えることか?
「ナゴヤベンじてん」に「わらをすぐる」は、わらの外皮などを除いて整える、とあり。
ナゴヤベンじてん 文4-069
くわ壱だん 桑一駄。馬一頭が負う荷物の量を表す単位。一駄は本馬が三十〜四十貫。軽尻は、本馬の三分の二程度。 音訓引き古文書字典 文4-069
三ふきよう 浄土三部経 文4-065
百銅 銅銭百文のこと。 広辞苑 文4-064
一之宮行 三と八の付く日なので、三八市に出かけた。 文4-064
日用 日雇(ひやとい)のこと。 音訓引き古文書字典 文4-061
御上様 ここでは北方代官所 学習会 文4-058
つま 妻、端。建物の長手方向のはし。棟と直角の壁面。 文4-057
御りん番様 輪番。浄土真宗で、各地にあって本願寺直属の別院を取り締まる代表管理職の称。 日本国語大辞典 文4-054
備中 2〜5個の歯をもつ股鍬 広辞苑 文4-054
くわノから平 不明 文4-054
樋口氏の三年かいき 江南市史に「三輪源作の文久二年の日記帳に、「四月朔日、此ばん五ツ時に、樋口徳右衛門そちう(卒中)にて死す」「二日天キ、此日そうしき」とあり、三輪家の墓地に「樋口徳右衛門」の墓碑が立っている。 江南市史本文編 文4-052
当百 当百銭のこと。(百文に通用する意)天保銭の俗称。(広辞苑)天保通宝(楕円形)の表は「天保通寶」裏には「當百」の文字あり。 文4-048
しゆうたい 出来か。 文4-042
回生丸半剤 「剤」は「削」にも類似しているが、「剤」が正解。江戸時代、薬の販売単位として「一剤、半剤、一貼、一廻り」などが使われていた記録有り。 文4-042
ほたに船 不明 文4-039
壱〆五百目 〆は貫。1.5×3.75kg=5.625kg 文4-037
キリ物 きりもん。着物。 方言/江南市史文化編 文4-037
伊の口ビキやく 飛脚問屋で井野口屋のこと。
尾張領内と京都・大坂・江戸を中心に各地域を結ぶ尾張飛脚の飛脚問屋。
思文閣「飛脚問屋井野口屋記録 第1巻」インターネット検索 文4-037
ぐん正ヨミ 軍書読み。軍書の講釈。また、それをする人。軍談師。講談師。 広辞苑 文4-037
うとん一重 重箱ひとつ分か?二段のひと重ねか? 文4-036
御帳面三冊 慶応二年日記一月二十九日に「蚕種御帳めん三さつ」とあるので、蚕種売り上げの帳面が正解と思われる。
宗門改帳とも考えられるが。宗門改帳は「江南市史古文書編上」に「三月中に清書し、四月に代官所よりの役人から改めを受けた」とある。ここでは「二月二十四日…御帳面三冊…受取」とあるので宗門改帳ではないと思われる。
江南市史古文書編上 文4-033
上川船 木曽川は笠松を境として上流を上川といい舳の高い上川船を利用し、下流を下川といい鵜飼船(下川船)を利用した。 インターネット 文4-031
惣右衛門船 不明 文4-031
ふしの粉 五倍子(ふし)の粉。ふしを乾燥させて粉末状にしたもの。白色だが鉄漿を入れて黒汁とし、おはぐろなど染料として用いる。五倍子(ふし)は、ヌルデの葉茎にできる虫こぶ。ヌルデノミミフシが寄生して生じるもの。殻にタンニンを多量に含み薬用として用いられるほか、染織やインキ製造に用いられる。古くは女性のおはぐろに用いた。
「東海道中膝栗毛輪講 下編」に「川端のふしの粉屋」の商標が掲載されている。
精選版 日本国語大辞典 文4-031
たん 病名か?不明 文4-028
かんじる 「かんじ」は寒いこと。 方言/ナゴヤベンじてん 文4-027
はてがん様 果岸。彼岸のはてる日、最終日、七日目 方言/ナゴヤベンじてん 文4-026
寺上り・寺入 寺小屋に入ること。寺子屋時代には初午の日に子供を寺小屋に入学させた。 「江南市史本文編P429」「江南市史文化編P426」 文4-025
マイ玉 繭玉のこと。小正月または初午の日に飾る餅花。文久四年二月十一日は壬午(みずのえうま)で初午。 文4-024
手つまつかい 手妻遣い。古来より日本に伝わる日本独自の手品・奇術のこと。 「手妻」の語源は「手を稲妻の様に素早く動かすから」。 文4-023
加州かん上様 加州は加賀。かん上は勧進か? 文4-017
春馬(二月四日) 不明 文4-017
車屋 水車屋のこと。 文4-016
文弥 文弥節。古浄瑠璃の一派。 文4-014
三味ひき 三味線ひきのことか。 文4-014
回生丸 三輪家で製造販売した薬で、信州上田の薬師堂の別当が天明三年に小杁村文永寺の円蝶和尚に伝えた産前産後の薬。 「江南市史・本文編」P437 文4-014
千マイ板 千枚板。板葺き屋根の葺き板として用いる薄板を指す。 日本民家語彙集解 文4-011
いない いなう。荷をかつぐ。 方言/ナゴヤベンじてん 文4-008
粕弐枚 酒粕などの数え方は「枚」を使う。 文4-008
しようちう(焼酎)粕 元治二年の日記P8に「くわの木にしよう中かすをかけさせ候」とある、桑の木の肥料に使った。 文4-008
せつ(節)ニ参り 在所へ帰るため、正月七日頃に休み与えることを「節に遣わす」といった。 成松佐恵子著「庄屋日記にみる江戸の世相とくらし」P245 文4-007
絲地 絲は糸の旧字体。元治二年の日記P042に「きぬ」とあり。日記では「きぬ」のことを言っている。 広辞苑 文4-004

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《日記の人物》

項目 解説 出典・内容 その他
宗重・貞二・源作・玄作・深作 三輪日記作成本人 尾張江南の歴史風土記(三輪系図) 本人
おれい 源作の女房(和田村、大脇平右衛門長女) 同上 家族
尚徳・宗伯 源作の兄(天保9年没) 同上 家族
長重・快ニ・海二 源作の弟(安政5年没) 同上 家族
おたけ 海ニの妻(東野村、長谷川源右衛門長女) 同上 家族
仲右衛門 (伊藤弥左衛門惣領)弘化四年正月に貞二(源作)の弟に入る 同上 家族
永二・深作 源作の嗣となる(海二の長男) 同上 家族
春江 永二の妻(藩士、鈴木善左衛門女(宮田村地頭)) 同上 家族
定市 海二次男 同上 家族
市治・市二 海二三男 同上 家族
又市(政市) 海二四男 同上 家族
良明・嘉左衛門・元陳 源作の父親(天保9年没)、本道眼療医ヲ相伝して近江国に名を顕す 同上 家族
* * * *
生こマ様 御側御用人の生駒頼母のことか? 藩士大全 慶2-021
せんぢしき様 善知識様か(来徳寺の住職に善のつく方が多いので住職の名前かも 慶2-020
当馬殿 医師村瀬藤馬。永二と定一の医学教育の師匠。文4-010 江南市史本文P435 慶2-019
京都のいん京様 不明 慶2-018
今井藤作 藩士大全になし 慶2-008
岡田半介 岡田半助。安政三辰七月廿四日 川並方手代本役申付とある。 藩士大全 慶2-008
伊藤様 伊藤政太郎(玄六・助六郎)北方御代官手代申付(文4-033) 藩士大全 慶2-002
京高門様 前門様(大門様)か。東本願寺第二十代達如(たつにょ)。十一月四日に遷化、十一月二十九日に葬儀が行われた。 東本願寺史料 元2-133
海二 源作の弟(安政五年に亡くなっているので、海二の家と解釈) 家系図 元2-132
江州八幡之はゝさま 源作の母。父親元陳の妻。元陳は家系図に「本道眼療医ヲ相伝シテ近江国ニ名ヲ顕ス」とあり。近江に在住している。 家系図 元2-130
西大海道村 谷兵三郎 取扱人として仲裁に入った。@安政六年階級御免許人別覚に「苗字・帯刀」とあり。A万延二年の証文に「惣庄屋」とある。 新編一宮市史・資料編・第十 元2-128
熊沢重左衛門 瀬部村の郷士で寺子屋を開いていた。 昭和十三年版、愛知県史第2巻P811 元2-127
松平竹蔵 元治元子七月十七日、川並奉行被仰付候、
御代官圓城寺奉行兼相勤候。屋敷は建中寺の南の方(すぐ前ではない)
藩士大全 元2-125
江戸御姫様 和宮。元2-117参照 元2-121
和宮様御母さま 和宮様御実母 観行院様去る(八月)十四日御逝去。鳴物は来る廿五日迄停止。 続徳川実紀第五編・一宮市史資料編八の触留四九七〇にも有り 元2-117
石川甚蔵 元治元子七月廿七日 御普請奉行並被仰付 藩士大全 元2-110
宮寺真道様 これまでの日記では信道と書かれていた。 元2-109
十一屋 栗本勝四郎(酒屋)の屋号。 愛知大学「綜合郷土研究所紀要・第7輯」 元2-108
四ノ宮連九郎様 藩士大全にナシ 藩士 元2-091
真先作助 渡邊様御御用人。藩士大全にナシ 藩士 元2-088
渡邊様 渡辺半十郎 藩士 元2-088
栗本玄通 文久四年P091 元2-081
浅井京右衛門 「江南市史 古文書編上」P35の御触書に「天保二年六月十三日、御普請奉行代浅井京右衛門」とある。藩士大全になし。 藩士/江南市史 古文書編上 元2-079
岩田運九郎 元治元子八月十二日 御勘定吟味役被仰付、地方可相勤旨 藩士大全 元2-077
永田太左衛門・安藤亀三郎・日比市左衛門 藩士大全にナシ 藩士 元2-077
四宮瘟E衛門 元治元子十月十一日 支配勘定申付御足米壱石差遣 藩士大全 元2-077
田嶋清太郎 藩士大全にナシ 藩士 元2-077
伊藤圓太郎 慶応二寅五月四日 地方御勘定奉行添物書銀六枚取より地方御勘定奉行物書召抱御切米五石御扶持弐人分差遣候 藩士大全 元2-077
水野平太夫 五十俵、元治元子十月十八日 御勘定奉行並被仰付、地方懸り公事方兼可相勤旨、同年十一月十三日 町奉行兼役被仰付 藩士大全 元2-077
松(平)竹蔵 高百石、元治元子七月十七日、川並奉行被仰付候、御代官圓城寺奉行兼相勤候様ニ与之御事候 藩士大全 元2-077
綿鍋半重郎 渡辺半十郎か。文政三年より渡辺新左衛門。二千石。慶応四年正月廿日、年来姦曲之處置有之候付依朝命死を賜候者也(青葉松事件)とある。 藩士大全 元2-076
北村傳八 藩士大全になし 藩士 元2-070
玉龍様 柏森仙寿(専修)院のお寺様 元2-066
間喜(問屋喜左衛門) 文久四年日記p062の問屋、P161に庄屋とある。 元2-062
御山両門様 御山は東本願寺。昭和18年「東本願寺史料〔本編〕」から、両門は、現門跡「厳如」、新門(次の門跡)「現如」を言っているようだ。また「門跡関東下向」として、四月廿九日名古屋へ御着こめ、五月四日一之宮 御泊岐阜御坊、五月九日、両門様御帰洛とある。 東本願寺史料〔本編〕 元2-061
有光様 日光様(東照宮・徳川家康)か?。不明 元2-054
山浦儀左衛門・石井助二郎・塩入・樋口・田沢村茂右衛門 いずれも信州蚕種商人 元2-046
塩入 信州蚕種商人(おくめと付き合うことが多いのは何故だろう? 日記解釈 元2-042
きょくりう様 不明 元2-038
仲右衛門 「三輪家系図」に伊藤弥左衛門の惣領であったが、弘化四年正月に貞二(源作)の弟に入るとある。同居かは不明。 親族 元2-034
小山様 小山清兵衛(八幡町)。元治元子五月十八日 町奉行所吟味役頭取(文久四年P121) 藩士・藩士大全 元2-034
利助 文久四年日記に玉子・かつお等買うとあり、乾物などの商いをしていた 日記解釈 元2-033
浅井京太郎 人物不明(藩士大全になし)。ただ、P053に浅井京右衛門とあり、同一人物と思われるが名前が違う。「江南市史 古文書編上」P35の御触書に「天保二年六月十三日、御普請奉行代浅井京右衛門」とあるので京右衛門が正しいかも。 藩士 元2-031
深作ト名改 家系図に記録はないが、この後の書付に「深作」名があるので、深作と改名したと思われる。次の代の永二も深作名を引き継いだ。 家主 元2-023
伊藤助六 伊藤助六郎。安政六未十一月廿四日 北方御代官手代申付 藩士・藩士大全 元2-023
九津屋様 葛谷か。藩士大全になし 藩士 元2-020
岡田様 岡田半助か(安政三辰七月廿四日 川並方手代本役申付) 藩士・藩士大全 元2-020
弥左衛門 伊藤弥左衛門。仲右衛門(貞二の弟に入る)の親。 村人 元2-019
墨ゑ 北方只七の娘。文久四年二月(P019)に「布袋村姉さまト新嫁トまいられ候、但シ墨ゑハひる御ぜんヲすまし供ト二人北方只七内へきやくニまいられ候」とあるので、布袋野の姉様の家に嫁いでいて、何かの原因で実家の只七方へ帰っていたようだ。(慶応二年一月二十九日の日記に春平の嫁とあり。) 親族 元2-017
草井牧の 昨年・今年と正月十七日(節ヵ)に客に来ている。嫁いだ娘かも。 親族 元2-014
花の妹 和田村(和田勝佐村)は源作の妻「おれい」の在所なので、花と妹は在所の子かと思われる。「おたけ」は亡くなった海二の妻で、源作の家に同居していると思われる。 親族 元2-014
一之宮伊せ屋喜兵衛 昭和十四年「一宮市史 下巻」P84に三八市の出店者として「薬種伊勢屋喜兵衛」とあるがどうか。文久四年三輪日記のP193に「いせき」とあるが同一と思われる。 昭和十四年「一宮市史 下巻」 元2-010
御かいさん(開山)様之御法事 開山様は誰か不明 不明 元2-005
村瀬藤馬 小折村布袋野の医師。村瀬春平の親 江南市史本文P435 文4-244
ナルせ尾前様 成瀬豊前守正植、天狗党追討のため岐阜へ出張していた。以前は「豊前」のみであったが文久四年二月に「諸太夫」に任命され「豊前守」に任命された。
「藩士大全」では、慶応元年五月に思召有之候付隠居被仰付慎可罷在候。慶応四年正月に 従来心得不正候付永蟄居被仰付旨となっている。
藩士/藩士大全 文4-231
林平 浅井村の森林平 文4-229
松竹村ほいん様 松竹村大宝院(真言宗醍醐派)。現江南市松竹町八幡153 文4-219
法見様 深妙寺十五代住職「鳳賢」か。 寺/川東二十四組寺巡り 文4-207
一之宮いせき 元治二年P010に「伊せ屋喜兵衛」とあるのでこの店と思われる。 商店 文4-193
大井和七郎 「元治元子十月朔日 寺社奉行所調方申付 御足米弐石差遣候」とある 藩士/藩士大全 文4-188
元東廿七会キ 源作の父親「元棟」天保九年九月二十九日没 親族/三輪家系図 文4-186
岩付茂平 藩士大全になし 藩士 文4-172
すゝ木(鈴木)様 宮田村給人の鈴木与三右衛門か 藩士 文4-155
小田切傳之丞 当時大御番組三番に所属。「椋園時事録」には「七月二十八日前大納言様御上京被 仰出候付、同二十四日朝成瀬隼人正殿発足、同夜大御番三番組発足、廿五日朝大御番頭石河主計殿発足」とある。 藩士/文4-121参照/椋園時事録 文4-146
増太郎様七月廿五日ニ御しきやう(死去) 小田切傳之丞の忰(三輪筆子帳の最初にメモ書き) 藩士 文4-146
源兵衛 名古屋本町四丁目に大黒屋源兵衛の扇子商がある。 商人/名古屋城下お調べ帳の城下町町人一覧 文4-124
小田切 春江。傳之丞。名古屋市中区栄5丁目あたり、久屋通り沿い松坂屋東に居宅。 藩士/文4-146参照 文4-121
小山様 小山清兵衛。八幡丁(現名古屋市中区錦一丁目袋町通、伏見通と堀川の間あたり)に居宅。元治元子五月十八日 町奉行所吟味役頭取。 藩士/藩士大全 文4-121
高上(鷹匠)町吉田治郎吉(次郎吉) 南鷹匠町(現名古屋市西区幅下一丁目の幅下公園あたり)に居宅あり。名古屋城の南西。
吉田次郎吉は文久四子正月十一日 御納戸本役
藩士/藩士大全 文4-121
杉浦茂八郎 藩士大全になし。 藩士 文4-120
栗本玄道(玄通カ) 江南市史本文編P394には、玄道でなく玄通となっている。また、同P435に、玄通は三輪家から医師栗本左衛門の養子になったとある。また、家系図によると名前は某となっているが、源作の父元陳の兄弟が栗本左衛門の養子とあるので、これが玄通のことと思われる。以上から栗本玄通は源作の叔父にあたることになる。 江南市史本文編 文4-091
京口屋 宮田村南野の寺小屋師匠として京口屋栗本佐平の名がある。号は京井軒。「名区小景」に和歌を載せる。 江南市史本文(P428・431) 文4-077
金重郎 加州(加賀)種屋 文4-060
小あみ村市右衛門 金貸し 学習会 文4-055
名古屋山墨(山澄)様・堀田茂介 藩士大全になし 藩士 文4-053
八橋氏 四ツ屋在住。安政4年の「階級御免許人別覚」の中に宮田村から5人の名前「栗本勝四郎・八橋此七・栗本喜平・宇佐美半之助・小沢清助」があり八橋は苗字帯刀自分一札」とある。 江南市史古文書編下P334 文4-051
山浦、石井 信州蚕種商人。石井は小県郡小泉村 江南市史本文P398 文4-049
塩入 信州蚕種商人 江南市史本文P398 文4-045
尾はり村正桂殿 不明 文4-044
泉立太夫 泉館太夫。伊勢内宮御師。 神社/江南市史本文P408 文4-040
母袋(もたい)恒之丞 母袋は名字。下塩尻の蚕種商人。 江南市史本文P398 文4-035
伊藤源六 伊藤玄六、助六郎。安政六未十一月廿四日 北方御代官手代申付 藩士/藩士大全 文4-033
岡田喜太郎 尾張藩士。文久三年十二月廿九日 川並奉行被仰付。 藩士/藩士大全 文4-014
和田村平右衛門 源作の妻「おれい」の父親、大脇平右衛門。和田村はおれいの実家。 家系図 文4-013
布袋野村藤馬 医師村瀬藤馬。永二と定一の医学教育の師匠。 江南市史本文P435 文4-010
おくめ 名古屋伏見町の田邊屋のおくめ 三輪日記文久4年P093 文4-004
三輪堂 三輪源作の号。小田切春江の「名区小景」の千間猿尾の和歌に「午刻からも一日ふりある雲雀かな 三輪堂」とある。 日記本人/江南市史・本文編P419 文4-001

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《地名》

項目 解説 出典・内容 その他
新神浦 神明の誤記かもと思うが、神明を間違うとも思えない。不明? 地名 慶2-028
幾賀村上和 木賀村定和。木賀村の枝郷。現江南市木賀町定和(じょうわ) 地名 慶2-024
江森村 江森村は葉栗郡と丹羽郡の二カ所あるが、和田村から江森村へ寄って御供所村へさんけいとあるので、丹羽郡の江森村(現江南市江森町)と思われる。 地名 慶2-018
古知の村平山 不明 地名 慶2-012
ウヲノタナ町 魚ノ棚筋。当時の地名で永安寺町、堀川から久屋町筋まで東西に延びる魚ノ棚筋は、当町に魚屋・料理屋が多かったことに由来する地名である。(角川日本地名大辞典)魚ノ棚筋の二本北の堀脇に地方御勘定所があった。 角川日本地名大辞典 元2-128
黒瀬 加茂郡細目村ノ内黒瀬カ(黒瀬湊があった)。現八百津町八百津。石原村から約17.4km。石原村から宮田まで15.3km 地名 元2-118
京町 名古屋城の南一本目の筋。 名古屋城下図 元2-097
七間町 本町筋の一本東の筋。小田切の住まい(久屋町筋の南突き当り付近(現松坂屋の近く久屋エンゼルパークの東あたり))から、七間町筋へ出て、若宮八幡社(本町筋の南(現中区末広町))へ行き祭りを見たと思われる。 地名 元2-096
村久の若 若痰ヘ村久野村の字(枝郷) 地名 元2-095
尾山村 丹羽郡小山(おやま)村(現一宮市千秋町小山)か、(岩倉市の北西) 地名 元2-086
岩倉上ノ町 不明 地名 元2-079
出嶋 後飛保村の枝村(字) 元2-078
巾下 現名古屋市西区のうち名古屋城の西あたりの地域。大正五年発行「名古屋市史地理編」に「巾下は名古屋村の内にして、市巷連綿たる処なり、前ノ川町以南、東は城を限り、西と南とは区域定まらず、蓋し高地を指して巾上と云ふに対し、卑湿の地を巾下と云ふか」とある。 大正五年発行「名古屋市史地理編」 元2-077
車道 車道筋のこと地方同心の住まい有。現名古屋市東区の車道通(徳川美術館から南へ延びる) 地名 元2-076
倉地(倉知)村 武儀郡。現関市倉知(関インターチェンジ付近) 地名 元2-056
ヲ口村 丹羽郡小口村。現丹羽郡大口町に上小口・中小口・下小口がある。 地名 元2-055
さいと村 丹羽郡斉藤村。現丹羽郡扶桑町斎藤当り(イオン扶桑の南) 地名 元2-055
村久の小村 村久野村の字(枝郷)。 地名 元2-052
下野(しもの)村 丹羽郡下野村。現丹羽郡扶桑町高雄下野。(文九四年P014) 再掲 元2-051
堀筋はくろ(博労)町 大阪の博労町はある。堀筋は堀川の筋か?。 地名 元2-050
石原村 宮寺周見様の在所
尾張に見当たらず。近いところでは可児郡石原村か(文久四年P040と同じ)
地名 元2-040
南脇 後飛保の字(枝郷)、現在は残ってないが、「江南市史地図編」によると後飛保町宮前の利益寺(りやくじ・西山浄土宗)あたり。 地名 元2-036
西小防村 岐阜県高山市久々野町小坊か(高山の南) 地名 元2-032
下の村 丹羽郡下野村。現丹羽郡扶桑町高雄下野。(文九四年P014)なお下野村はすべて成瀬隼人正の給知 地名 元2-031
中嶋村 北方村の南。現一宮市北方町中島 地名 元2-030
阿古井村 上祖父江の東の村。現一宮市明地西阿古井あたりか 地名 元2-020
出嶋 後飛保村の字(枝郷)。江南団地の北。(文久四年P057) 地名 元2-015
羽黒村ナルミ 羽黒村の枝郷(丹羽郡羽黒村内鳴海)=現犬山市羽黒成海郷あたり(文久四年P134) 地名 元2-015
下切村 各務郡。現岐阜県各務原市下切町
(鹿子島の対岸あたり)
地名 元2-012
六けん 六軒(中山道沿い自衛隊岐阜基地の北)文久四年のP210 地名 元2-011
村久の新田 村久野村の字(枝郷・支村) 葉栗郡絵図 元2-009
江州へそ村 現滋賀県栗東市綣(へそ) 地名 元2-003
河田嶋村 現川島町。濃州羽栗郡河田嶋村。小網村の西にあった島。 地名 文4-240
黒田村下市場 現名鉄新木曽川駅付近 地名 文4-237
花池村 現一宮駅南西 地名 文4-235
神明平蔵浦 不明。宮田村のどこか? 地名 文4-229
みの岩田村 各務郡。現岐阜市岩田東・岩田西か。(芥見の南西隣村) 地名 文4-229
大日浦 北方町の東、木曽川堤に大日霊社がある。この近くのことか? 地名 文4-226
太田宿之渡シ 中山道御嵩と太田宿の間の木曽川の渡し。天狗党は11月28日御嵩宿に泊まり、29日に木曽川を渡り(太田の渡し)太田宿を経て鵜沼宿に泊まった。 地名 文4-222
三井村 各務郡三井村。現岐阜県各務原市三井町。(イオン各務原の西) 地名 文4-222
ミノ野中村 羽栗郡野中村。現岐阜県羽島郡岐南町野中(イオン各務原と国道22号の間、国道21号の下部)か。 地名 文4-221
北方キツ子塚 一宮市北方町北方狐塚郷あたりか(国道22号の東沿い) 地名 文4-218
埴科(はにしな)郡新田 新田村=現長野県千曲市新田(千曲川沿) 地名 文4-214
六見?あくたひ村 六軒(中山道沿い自衛隊岐阜基地の北)にて中山道を避けて芥見村(現岐阜市芥見、各務原市の北方)を通り現国道157号を通り北陸へ抜けた。 地名 文4-210
高田村 厚見郡高田村。現岐阜市高田(イオン各務原の北西当り境川沿い) 地名 文4-186
熊の松 村久野村の枝郷の熊野松(宮田村生原に接する) 地名 文4-184
かゝ見(各務)村 各務郡各務村。各務原市の中央当り、現各務西町他 地名 文4-178
巾下ヲシ(押)切新道 現名古屋市西区押切 地名 文4-172
岩地村 各務郡岩地村。現各務原市那加岩地町(イオン各務原の北) 地名 文4-165
宮西 宮田村の字(川島神社の西) 地名 文4-163
ミノ北嶋 厚美郡北嶋村。現岐阜市北島。長良川鏡島大橋の北 地名 文4-141
羽黒ナルミ村 丹羽郡羽黒村内鳴海(現犬山市羽黒成海郷あたりか) 地名 文4-134
五平蔵町 現名古屋市西区城西4丁目あたり
名古屋城の北北西、浄心の近く
地名 文4-120
万石村 美濃国絵図では切戸村。大垣藩領。大垣城の東、揖斐川沿。現岐阜県大垣市万石。 地名 文4-116
浦橋ね 不明。くずしが不明。 地名 文4-113
キフ竹屋町 岐阜市(岐阜城の南西近く)に中竹屋町、上竹屋町があるがここか? 地名 文4-108
丸山 犬山城の東方、丸山新田。 「犬山城主成瀬正寿が文化七年に丸山に開窯」と愛知県のホームページにある。 「尾張名所図会後編六」に犬山焼陶器…妙感寺の北の方、丸山といへるに竃ありて製造す。赤画青絵等なり、皿鉢盃茶碗壺類そのほか種々あり近年の新製なり、とある。 尾張名所図会後編六 文4-106
新白 新城(文久2年P090参照) 地名 文4-101
ミノ上ジキ 羽栗郡上印食村。(読みはカミジキムラ)。現岐阜県羽島郡岐南町上印食。 地名 文4-100
東屋敷 宮田村の字(東寄り)。現江南市宮田神明町天王。 江南市史 資料二 文献編(村絵図) 文4-099
名古屋くわな屋 「桑名屋半左衛門、玉屋町二丁目、諸国御定宿・勢州飛脚宿」とあり。 「名古屋城下お調べ帳」の城下町町人一覧 文4-095
三州信シロ(新城)東新町 設楽郡新町村。現新城市。地名としては東新町は存在せず。明治十一年以前は新町村、明治十一年新城村。 地名 文4-090
七間町六丁目 当時、上七間町と下七間町と分かれていた。一番北に評定所があった。現在は名古屋城の南、七間町通り。 地名 文4-087
下切村 各務郡下切村(現各務原市下切町) 地名 文4-081
神野村 丹羽郡神野村。現岩倉市神野(かみの)(岩倉の北方) 地名 文4-073
浦町(名古屋) 名古屋裏町か、北側が鍋屋町で鋳物屋が多くあった。参考に小田切傳之丞の住まいは、久屋町大下行当り北東角(久屋町の筋を南へ突き当り) 地名 文4-062
牛子村 美濃羽栗郡の木曽川の島、小網村の近く松倉村の枝村に牛子村(時代により中牛子・東牛子・西牛子) 地名 文4-062
後飛保村出嶋 後飛保村の字(枝郷)。江南団地の北。 地名 文4-057
すな場村 現江南市宮後町砂場(古知野の南東)
丹羽郡宮後村の枝郷(「尾張徇行記」宮後村に「支邑を砂場ト云」とあり。)
尾張徇行記 文4-054
のり竹(則武)村 方県郡則武村。現岐阜市則武。萱場村の北東。 地名 文4-052
かやば(萱場)村 厚見郡萱場村。現岐阜市萱場町あたり(長良川北)東嶋・北嶋等が近くにある。 地名 文4-052
ミノキフ嶋(岐阜嶋) 鳥村は往古「岐阜島」と称する地方なるが故と、其大字名に島名の多きよりかく称したるなるべし.近島、池ノ上、東島、北島、萱場、早田、菅生、旦ノ島、江口、西中島の十村の合併したるものなり。 美濃国稲葉郡志(大正4年)P11 文4-052
尾はり村 春日井郡小針村(現小牧市小針)のことか 地名 文4-044
ウキノ(浮野)村 丹羽郡浮野村。現一宮市千秋町浮野(いちい信金スポーツセンターの北) 地名 文4-039
久太郎町 大阪市中央区久太郎町。 地名 文4-037
大屋敷村 丹羽郡大屋敷村。現丹羽郡大口町大屋敷。 地名 文4-036
橋ツメ村 丹羽郡橋爪村。現犬山市橋爪。 地名 文4-032
八幡(やはた)村 葉栗郡門間村の字(枝郷)。伊富利部神社有り。
現一宮市木曽川町門間字八幡および大毛八幡。
地名 文4-028
斉藤村 丹羽郡斉藤村。現丹羽郡扶桑町斎藤。 地名 文4-025
北久太郎(きゅうたろう)町 大阪市中央区久太郎町。 地名 文4-022
下野(しもの)村 丹羽郡下野村。現丹羽郡扶桑町高雄下野。 地名 文4-014
小北村 丹羽郡河北(こぎた)村のことか。小口村の東。 地名 文4-014
上ノ郷 瀬部の字(枝郷) 地名 文4-012
大屋敷村 丹羽郡大屋敷村 地名 文4-012
布袋 布袋野。小折村の枝郷。 地名 文4-010
ヲキ村 春日井郡沖村。現北名古屋市沖村。 地名 文4-005
五平蔵(ごへいぞう)町 現名古屋市西区城西(浄心町の東) 地名 文4-004
ツカノ 丹羽郡継鹿尾村(犬山)のことか。 寂光院(継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院と号す)あり。 地名 文4-003
和田村 丹羽郡和田勝佐村のことか。 おれいの在所 文4-003
ヲフチ村 丹羽郡小渕村のことか。 地名 文4-003
宮田村内の字 南ノ・高見・南ノ前・飛保裏・貝柄・久保見・神明堂・勝負池・三ツノ松・桐木・生原・鎌土・八幡西・神明・山神東・石塔・南ノ・柳嶋・杁間・本田嶋・観音・本郷・四ツ屋・駒?・神田・天王・川嶋・新田・中嶋・内田 地名/江南市史近世村絵図 文4-003
徳田村 羽栗郡徳田村と思われる。現岐阜県羽島郡岐南町徳田 地名 文4-002

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《寺社》

項目 解説 出典・内容 その他
御供所村えさんけい @曹洞宗 桂林寺(現丹羽郡大口町。)A大きい神社はなさそう。 寺院 慶2-018
石田村之御寺様 少し遠いが美濃中嶋郡石田村(現羽島市下中町石田)か?願照寺(浄土真宗本願寺派)、正専寺(真宗大谷派)がある。 寺院 慶2-008
安上寺 葉栗郡野中村 真宗大谷派 安浄寺か。現羽島郡岐南町野中3-85。 寺院 慶2-006
上宮寺 真宗大谷派。現江南市前飛保町寺町。 寺院 慶2-005
来徳寺 真宗大谷派。現一宮市浅井町河田寺屋敷376-1(文4-099) 寺院 慶2-005
せそういん様 曼陀羅寺の塔頭の寛立院。(元2-142) 寺院 慶2-002
勘流いん様 曼陀羅寺の塔頭の寛立院。(元2-142) 寺院 慶2-002
せソウいん(世尊院) 曼陀羅寺の塔頭の世尊院か? 寺院 元2-142
覚龍院(寛立院) 曼陀羅寺の塔頭の寛立院。(元2-034) 寺院 元2-142
見中(建中)寺 尾張徳川家菩提寺、徳興山建中寺、浄土宗。現愛知県名古屋市東区筒井1丁目。 寺院 元2-125
柏森村寺 専修院 寺院 元2-112
巾下ごんげん様 富士浅間(せんげん)神社のことか。現古屋市西区浅間1丁目3-2。名古屋城の西。名古屋叢書三篇8の張州年中行事鈔P342に、「浅間(せんげん)権現雅楽 幅下浅間(せんげん)町」の記述あり。 名古屋叢書三篇8の張州年中行事鈔P342 元2-097
本郷のかんのふ様 曹洞宗勝栗山観音寺か?現江南市宮田町泉120。宮田村絵図には観音堂とある。 寺院/宮田村絵図 元2-089
セキノ善光寺 現岐阜県関市西日吉町35。正式名称「妙祐山宗休寺」と云う天台宗安楽律法流の寺院 寺院/インターネット関善光寺 元2-052
来徳寺 真宗大谷派。現一宮市浅井町河田寺屋敷376-1(文4-099) 寺院 元2-038
光明院 西山浄土宗。現江南市前飛保町寺町202、曼陀羅寺塔頭。 寺院 元2-038
柏森お寺 浄土宗西山禅林寺派解脱山専修院か 寺院 元2-038
瀬部村金ひら様 現一宮市大字瀬部字四日市場にある金毘羅神社(金刀比羅宮 尾張分社)のことか?(文久四年P101) 神社 元2-035
覚龍院 曼陀羅寺の塔頭の寛立院。(元治二年日記の最後に慶応元年一月の記述が)あり「覚龍院様」とあり、慶応二年の日記の一月に同じことを再度記入した部分があり、ここは「勘流いん様」と記しているので、「かんりゅう院」が正しそうである。 寺院 元2-034
名古屋シコウ寺様 不明。慈光寺(名駅四丁目18番23号)か 寺院 元2-020
日比の村運善寺様 大日比野村壽命山運善寺。現一宮市浅井町大日比野1841。真宗大谷派。 寺院 元2-020
文永寺 現江南市小杁町寺ノ内121。法隣山文永寺、臨済宗妙心寺派 寺院 元2-016
圓城村圓城寺 圓城村は円城寺村。河野(かわの)円城寺、真宗大谷派。現羽島郡笠松町円城寺。
・飛鳥時代、聖徳太子により尾張国河野に創建。「清涼山 圓城寺」法華宗であったが、後に天台宗に改宗。
・平安時代の頃、洪水で圓城寺と照高院は流出。現在地に照高院として再建。
・嘉禎元年、浄土真宗に改宗、寺号も西勝坊とする。
・文明二年、このころ西徳寺に改称。
・天保二年、「葉栗山 円城寺」に改称。(ウィキペディア)
ウィキペディア 元2-015
松竹村法いん様 現江南市松竹町八幡153、真言宗醍醐派「大寶院」 寺院 元2-006
仏眼寺 現滋賀県栗東市綣8ー4ー29、時宗、本尊は阿弥陀如来座像 寺院 元2-003
法光寺 宝光寺の誤り。現一宮市木曽川町黒田宝光寺。臨済宗妙心寺派。 寺院 文4-237
正法寺 真宗大谷派。現各務原市鵜沼小伊木町(犬山ライン大橋の北) 寺院 文4-207
仙徳寺(専徳寺) 中島郡苅安賀村。真宗大谷派。現一宮市大和町苅安賀花井町裏2865 寺院 文4-183
しん上寺(真成寺) 丹羽郡東野村。真宗大谷派。現江南市東野町河原69 寺院 文4-183
ナルミ村金こいん 不明 寺院 文4-149
岐阜善光寺 現岐阜市伊奈波通1丁目8(伊奈波神社の手前にあり)
岐阜善光寺のホームページに「戦国時代、武田信玄公は信濃善光寺から善光寺如来様を持出し、甲府に新善光寺を建立。信玄公が没すると、織田信長公によって岐阜に迎えられ、本能寺の変後は、織田信雄公が尾張の甚目寺に、秀吉公によって京都の方広寺に、家康公により浜松の鴨江寺に移され、そして信濃善光寺の本所にお帰りになった。その後、嫡孫織田秀信公は、稲葉善光寺堂を建立し、善光寺の御分身をお祀りし、それを安乗院と満願寺によって護持されて来た。明治の廃仏棄釈後は安乗院が単独でお護するようになった。」とある。
寺院/岐阜善光寺のホームページ 文4-128
かんろう寺 葉栗郡大野村、甘露寺。真言宗。一宮市浅井町大野郷中1039、正徳二年までは放生軒と称した。(大野神社と併設?) 寺院 文4-111
泉寿いん 丹羽郡栢森村、専修院(せんじゅいん)。浄土宗西山禅林寺派、丹羽郡扶桑町柏乙西屋敷62 寺院 文4-111
キフ東御防所 東御坊。真宗大谷派岐阜別院。岐阜市大門町一番地(岐阜城の麓) 寺院 文4-110
ツガノ村かんのふ様 犬山市継鹿尾の寂光院、本尊は千手観世音菩薩。 寺院 文4-106
瀬部村金ひら様 現一宮市大字瀬部字四日市場にある金毘羅神社(金刀比羅宮 尾張分社)のことか? 寺院 文4-101
宮寺 天王社にあった神宮寺(先生2023-9月)
「ふるさと宮田の神と仏とその祭り」に、「昔は、神社境内東側の森の中ほどに、宮寺と呼ばれていた家屋があり、阿弥陀如来と釈迦如来が祀られていました。(中略)明治政府の「神仏分離令」により宮寺の記録や仏像は散逸してしまいました。(中略)この宮寺の仏像は在家に隠されていたと言われています。明治から大正時代を過ぎ、昭和30年代になり、宮寺であった家屋が、南の道路沿いに川島神社社務所として移築されると、いつの聞にか仏像などが戻ってきて、それが社務所に祀られることになりました。」とある。
寺院/ふるさと宮田の神と仏とその祭り 文4-099
来徳寺 葉栗郡河田村、真宗大谷派、元礼徳寺(寛文村々覚書にも礼徳寺とあり。。現一宮市浅井町河田寺屋敷376-1 寺院/尾張志 文4-099
ミノ笠神様 岐阜県岐阜市岩井(山県郡岩井村)の延算寺(えんさんじ)と思われる。東院の本尊は薬師如来。別名を瘡神薬師(かさかみやくし)といわれ、「美濃名勝案内」には「傍より霊泉の湧出するものあり、霊験殊に著しく遠近より来り詣づるも四時絶ゆることなし。」とあり、また、岐阜の旅ガイドに「小野小町が天然痘にかかり、ご本尊の夢のお告げで薬水を授かり、病気が平癒したという伝説が残っています。」ともある。
他に、@岐阜県美濃市笠神(武儀郡笠神村)の上神神社(かさがみじんじゃ)安産・豊作の神として篤く尊崇されている。A加佐美神社(かさみじんじゃ)。岐阜県各務原市蘇原古市場町(各務郡古市場村)がある。
寺院/ウィキペディア・美濃名勝案内・岐阜の旅ガイド 文4-059
法光寺(報光寺) 現江南市古知野町本郷114。真宗大谷派 寺院 文4-056
天王様 江南市宮田町四ツ谷の川島神社のこと。江戸時代は午頭天王と称していた。後年川嶋神社として再建される。明治三十一年、川島神社に改称。 寺院/ウィキペディア 文4-051
ウツヽ明見様 内津妙見寺。天台宗、現愛知県春日井市内津町、内々(うつつ)神社に隣接。内津妙見寺開帳の記録は、細野忠陳「見聞雑剳三十一巻」に記載あり。 寺院/見聞雑剳三十一巻(名古屋コレクション794コマ) 文4-043
名古屋七めん様 名古屋市中区橘一丁目の妙善寺(七面宮)で七面様と呼ばれていた。又、この寺の横筋を七面横町と呼んだ。 寺院/ウィキペディア・美濃名勝案内・岐阜の旅ガイド 文4-037
前飛保深妙寺 現在は宮田町本郷に移る。真宗大谷派。 寺院 文4-035
大毛村天神社 一宮市大毛西郷にある天神社か。今は小さな祠があるのみ。 神社/googleマップ 文4-034
京都ようかん(永観)堂 浄土宗西山(せいざん)禅林寺派。京都市左京区永観堂町。宗派は曼陀羅寺と同じ。 寺院 文4-030
黒田村之妙見様 木曽川町黒田の日蓮宗法蓮寺。寺内に妙見堂があり妙見菩薩(妙見さま)を祀る。 寺院 文4-028
とん上寺(頓受寺) 真宗大谷派のお寺。葉栗郡尾関村。現所在地は浅井町尾関西本郷。 寺院 文4-018

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《出来事》

項目 解説 出典・内容 その他
御公義様之弐百五十会キ 徳川家康(東照宮)の250回忌。日光東照宮にて四月七日から十七日にかけて行われた。
「一宮市史資料編八」触書四八九〇に「御神忌、公家衆中山道通行につき、宿々借物諸色二十七日繰込みにつき用意のこと。明後二十四日、これにつき申し談ずるにつき出頭のこと」、触書四八九二に「御神忌につき継人足を繰出すべきこと」とある。
一宮市史資料編八 元2-047
小田切様長州より下向 「尾藩世紀」に慶勝の動きとして「(慶応元年正月)十六日大坂ニ次ス……同廿三日、大坂ヲ発シ、廿四日入京……(三月)廿六日発京。(三月)廿九日(名古屋)帰城」とある。長州征伐の慶勝は三月二十九日まで名古屋に帰っていないので、小田切は慶勝とは別かれ、先行して名古屋へ帰ったと思われる。 尾藩世紀・三世紀事略 元2-035
大坂行人足… (P035のコメント参照)長州征伐に行った慶勝は慶応元年一月十六日に大阪に帰っているので、慶勝帰着前の準備の手伝いとして派遣したか。 日記解釈 元2-025
高壱石目ニ付金弐分弐 「一宮市史資料編八」の触四八七七に「前大納言様御事、先般依 台命長防御征伐等御入用……方今不意ニ金財御入増之途も出来、最早兵士御手当向迄も必至行支之期ニ相成御心痛不少儀ニ有之候、付而者此上下え大儀相懸候儀ハ何共気之毒至極ニ候得共、御当然之御用途一同奮発御引受不申上候半而は……十二月」との触れがあるがどうか。金額など詳しくは記載なし。(他に一宮市史資料編九P130浮野村記録参照) 一宮市史資料編八 文4-236
大納言様大阪御出張 慶勝は当時長州征伐で広島出張中。 文4-236
宮宿?…別れて立より 熱田宿。天狗党と関係はなく松前藩の仲間と宮宿で別れて濃州岩田村へ行こうとしていたものと思われる。
名古屋コレクション「見分雑剳(1122コマ)」に「十二月五日松前伊豆守附属歩兵組熱田宿泊、七日晩伊豆守殿熱田泊」とあり。"
見分雑剳 文4-229
松前の御役人 北海道松前藩の役人 文4-229
木少しながれる 御用木が流された。 学習会 文4-220
水戸浪士 水戸藩の天狗党の挙兵事件。尊王攘夷を唱えて筑波山で兵を挙げた田丸稲之衛門・藤田小四郎らに、武田耕雲斎らが合流。諸藩の連合軍に敗れ、越前に走って加賀藩に降り、田丸・藤田・武田ら352人が敦賀で斬罪。筑波山事件。 広辞苑 文4-210
御寺だんあたる 御示談か。不明。日記では元治元年禁門の変で焼失したお寺への奉賀。 文4-199
御用金指上 元治元年十月、慶勝の長州征伐に伴い軍用金挑として各村々に「今般、長州御征伐ニ付、……費用相調候様」との御触れが出された。起村の触には、「高百石ニ付金八両と十弐匁五分余」とある 一宮市史資料編八・触四八五五
椋園時事録0960コマ
文4-196
御殿様京え十四日ニ御立 「三世紀事略」に「九月十四日名古屋を発し同廿二日上京(長州征伐)」とある。また、「一宮市史資料編八・触四八四〇」にも「前大納言様御上京、来ル十四日御進発、稲葉宿御昼休ニ付・・・」とある。「慶勝は九月十四日名古屋を発し二十一日京都に入った。」(近世日本国民史56のP31) 三世紀事略
一宮市史資料編八・触四八四〇
文4-179
御びんとうようの御ふれ 「御びん」は穏便。元治元年七月の「触れ」に、「水野和泉守殿?御城附え被相渡候書付写
京都表乱妨人等有之 御所辺ニ而炮発出火等え付、彼是御配慮被 思召候間、当分之内、神事・祭礼・鳴物等見合候様可致候 七月」とある。
一宮市史・資料編八、触四八二一 文4-154
先様京え御立(文久4年7月28日) 「七月二十八日前大納言様御上京被仰出候/前大納言様御上京御延引」と「椋園時事録」にある。 椋園時事録 文4-143

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《参考史料》

項目 解説 出典・内容 その他
貨幣の数え方について 金1両:4分=16朱=銀60匁
金1分:4朱=銀15匁
金1朱:銀3匁7分5厘
・銭の相場(江戸後期):
 金1両=銀60匁=銭6500文
・百銅=銅銭100文
・疋=1疋は銭10文をさす。なお後世、儀礼的に金1分を金100疋と呼ぶ用法があった。
・当百=当百銭のこと。(百文に通用する意)天保銭の俗称。
天保通宝(楕円形)の表は「天保通寶」裏には「當百」の文字あり。
相場:「貨幣博物館」のWebサイト
疋:日本歴史大事典
当百:広辞苑
全般

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